温暖な気候・風土に恵まれ、山の頂上近くまで耕された段々畑は柑橘栽培に向き、昔から盛んに温州みかん(普通 のみかんの品種)が栽培されていました。そして、この典型的なリアス式海岸をもつ天然の良港、下津港からみかんを各地に運びました。江戸期、下津は風波に見舞われ航路は途絶え、みかんを運送できなくなりました。地元では、みかんが大量 に余り、値段が下がっていきました。その頃、江戸においてみかんの値が上がっていることを知り、決死の覚悟で運んだのが紀伊国屋文左衛門です。これにより、大きな利益を得た文左衛門は、後の江戸八丁堀で材木問屋を営み幕府御用達商人となります。元禄時代(1688年〜1703年)の豪商ともいわれ、「沖の暗いのに白帆がみえる、あれは紀州のみかん船」と俗謡にうたわれるくらい世の人に深い印象を与えました。紀州熊野に生まれた文左衛門は、限りないロマンとオレンジ色の夢をのせて、この下津港から人生の船出をしていきました。町には勇気ある文左衛門をしのんで石碑が立てられています。
